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マウントプレザント() は、アメリカ合衆国サウスカロライナ州チャールストン郡に属する郊外町である。チャールストン・ノースチャールストン・サマービル都市圏に入り、州内では5番目、都市圏ではチャールストン、ノースチャールストンに続いて3番目に大きな自治体である。アメリカ合衆国国勢調査局による2000年国勢調査での人口は47,609人だったが、2010年では67,843人と42%増加しており〔American FactFinder . U.S. Census Bureau. 2011年2月4日. 2011年4月5日閲覧〕、特に1990年から2000年に掛けて人口が文字通り倍増し、州内でも最大級に増加率の高い自治体である。 アーサー・ラブネル橋の袂に海軍海洋博物館であるパトリオッツ・ポイントがあり〔Patriot's Point 〕、ここには第二次世界大戦時の航空母艦USS''ヨークタウン''が係留されていて、現在は博物館船になっている。2006年に開通したアーサー・ラブネル橋は8車線の高規格道路であり、クーパー川を跨いでマウントプレザントとチャールストンとを結んでいる。 == 歴史 == マウントプレザントは元々ソーウィー族インディアンが住んでいたが、1680年7月6日にイングランドからフロレンティア・オサリバン船長の指揮する最初の白人開拓者が到着した。オサリバン船長は2,340エーカー (9.4 km²) の土地を勅許されて来ており、それにはサリバンの名前が冠せられた島だけでなく、マウントプレザントの町となった場所も含まれていた。当時の地図でこの地域は「ノースポイント」と呼ばれていた。 1696年に新しく51人の開拓者が到着した。家族ごとに数百エーカーの土地が割り当てられ、ここはクライストチャーチ・パリッシュと呼ばれるようになった。1706年、カロライナ植民地はスペインやフランスから数回の攻撃を受けたが、「アブコー」と呼ばれる地域でフランス人侵略者を打ち負かした。 「アブコー」と呼ばれる地域はホブコー・プランテーションであり、シェム・クリークとワンド川の間にあった。そこは川の水深が深く、造船業に適した良材が豊富に得られたので、後にシップヤード・プランテーションとも呼ばれるようになった。ホブコー・プランテーションに隣接する土地は時代と共に幾つかの異なる所有者の手に入り、その多くは渡し船を運航した。 1860年9月24日、マウントプレザントで市民集会が開かれ、州内では初の脱退決議が成立した。サウスカロライナ州の脱退会議は同年12月20日にチャールストンで開催された。南北戦争の開戦と共に、ゲーリー砲台と、マウントプレザントとサリバン島の間にある浮き砲台は町の防衛だけでなくサムター要塞攻撃にも重要な役割を果たした。町はエリオット・クリークの国家歴史登録財であるブーン・ホールからコパヒー・サウンドまでの防御線で守られてもいた。アメリカ連合国の潜水艦''H・L・ハンリー''の乗組員8人の秘密の訓練所がマウントプレザントにあった。この小さな潜水艦が北軍のUSS''フーサトニック''を攻撃して沈めたのはブリーチ入江から発進してからだった。 南北戦争の結末として、この地域のプランテーションで働いていた奴隷は解放されて自らの仕事を求めるようになった。南北戦争後チャールストン地域で初めて形成されたアフリカ系アメリカ人の地域社会は、現在マウントプレザントに存在するスキャロンビルである。元奴隷で解放された大工になったロバート・スキャンロンがレムリー・プランテーションと呼ばれる614エーカー (2.5 km²) の土地を購入した。そこはワンド川に沿うチャールストン港に面していた。ロバート・スキャンロンはこの地域で広大な土地を購入するために一株10ドルを拠出したチャールストンの貧しいアフリカ系アメリカ人100人によって結成されたチャールストン土地会社の設立者かつ社長だった。チャールストン土地会社は自分の土地を持ちたい解放奴隷にそこを分割して与えた。レムリー・プランテーションは農場区画と町の区画(全体からみれば小さな区画)に分けられ、スキャンロンビルの地域社会を形成した。チャールストン土地会社とスキャンロンビルは、南北戦争後に4つしかないアフリカ系アメリカ人共同事業の1つだった。 スキャンロンビルの西はリバーサイドであり、チャールストン郡にある5つの黒人海岸のうち最大かつ最古のものだった。リバーサイドは公式には1930年にオープンし、ダンス会場、運動場、浴場、遊技場およびワンド川に沿った板張りの遊歩道があった。リバーサイド・パビリオンは、デューク・エリントン、カウント・ベイシー、ルイ・アームストロング、B.B.キングおよびアイボリー・ジョー・ハンターのような伝説的音楽家をチャールストンの黒人が見ることの出来る唯一の会場だった。このパビリオンでの音楽公演からスキャンロンビルに「ジューク・ジョイント(安酒場)」すなわちナイトクラブが生まれ、最後はジェームス・ブラウンが定宿にしたことで知られたホワイツ・パラダイスと呼ばれるホテルができた。リバーサイドの当初の所有者が1975年に死に、その資産の運営はチャールストン郡に引き継がれ、郡からそこを購入した会社が開発して門のある地域社会に変えた。 1989年9月23日、マウントプレザントはカテゴリー4のハリケーン・ユーゴーに襲われた。町は最悪の事態は避けられた(カテゴリー4の状態は町のさらに北方で生じた)が、それでも町やそれを守る2つの島も大きな打撃を受けた。この嵐を生き延びた子供達はケーブルテレビのニコロデオンの番組ニックニューズの初期エピソードで、ハリケーン・アンドリューに遭遇した子供達と共に登場した。皮肉なことにマウントプレザントは嵐の翌年から人口の急成長が起こり、1990年の人口約23,000人から2000年にはほぼ47,000人になった。 マウントプレザントはチャールストンとはクーパー川を隔てている。昔はチャールストン半島から川を越えて夏の家を営むことのできる裕福なチャールストン住人によって夏だけ人口が増える土地だった。マウントプレザントの住人は「ジ・オールド・ビレッジ」よ呼ばれる地域を中心に住んでいた。 バークレー郡の郡庁所在地は1882年から1895年までマウントプレザントだったが、その後モンクスコーナーに移った。 1928年、チャールストン半島からマウントプレザントに渡す橋が建設された。タウン・クリークとクーパー川に架かり、無人のドラム島を越える2車線のグレイス記念橋は有料道路として開通した。2つめでさらに大きなサイラス・N・ペアマン橋は1966年に開通した。 2005年7月16日、8車線のアーサー・ラブネル橋が自動車道路として開通し、古い2つの橋に置き換わった。西半球では最長の斜張橋であるこの橋が開通する1週間前、歩行者が橋を渡ることが許され、記念のコインが配られた。また橋の開通前の式典では花火が打ち上げられた。古いグレイス記念橋では、それができた時代のフォード・モデルA数台を含み当時の車が最後の渡りを行った。この橋は翌2006年夏の終わりに橋が爆破される様子を地元住人は数週間の壮観なショーとして見物した。古い橋の残り部分は解体された。 2004年、マウントプレザントはガソリンの前払い条令を成立させたことではアメリカ合衆国でも最も初期の都市になった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「マウントプレザント (サウスカロライナ州)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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